Eclip’s blog

真の国際化をめざして・・・世界における日本の競馬

昭和競馬史回顧(7)20世紀に君臨-皇帝が敗れた日(後編)

凱旋門賞に思うこと

今年も凱旋門賞の季節になりました。日本馬は3頭で、キセキは前哨戦を使い、他の2頭(フィエールマンとブラストワンピース)は英国ニューマーケットでの調整から前日フランスへの空輸という臨戦過程に各陣営の工夫が感じられます。

最強イネーブルにどう立ち向かうのか興味は尽きませんが、日本競馬界の戦前の予想を見ると冷静さが目立ちます。前哨戦でのキセキの着順や相手の強さを考えると無理からぬものがあるでしょう。

これまで日本馬には何度か凱旋門賞制覇のチャンスがありました。しかし、いずれも不運な出来事で2着に終わっています。日本の最強馬が海外の頂点のレースに挑む・・・そんなチャレンジを見るに付け、1986年のシンボリルドルフの海外遠征のことが思い出されます。当時の日本の競馬ファンの期待は想像を絶するほどで、前年にジャパンカップを楽勝していることもあり、十分海外で戦えると誰もが考えていました。

初の蹉跌・ジャパンカップ

シンボリルドルフは、無敗で三冠を達成した4歳(当時の馬齢表記)秋に菊花賞から中1週の強行日程で第4回ジャパンカップへ出走します。1番人気は前走の距離短縮された初の天皇賞・秋を勝ったミスターシービーでルドルフは4番人気でした。逃げた毎日王冠勝馬カツラギエースが逃げ切り、ルドルフは2着のベッドタイムに及ばず3着でした。

このレース結果はさまざまな波紋を呼びました。まず、日本馬が初めてジャパンカップを勝ったこと。第1回ジャパンカップで見せつけられた外国馬の強さは、「日本馬がジャパンカップを勝つまでには20年かかる」と言われたほどの衝撃を与えました。それがわずか3年後に決してトップホースでない逃げ馬が勝ってしまったことが、手放しでは喜べない微妙な空気を醸し出しました。もし、この時、勝ったのがルドルフかミスターシービーであったなら、おそらく全く違ったのでしょう。

しかし、カツラギエースの勝利は、本来ショッキングであるべき無敗三冠馬の敗戦というルドルフの初の蹉跌を覆い隠しました。無敗の三冠馬を中一週で、これまでとは比べものにならない強敵ぞろいのジャパンカップへ出走させる、という決断をした陣営の意図は明らかにされていませんが、おそらく勝てると考えていたのではないでしょうか。そういう意味では、この蹉跌はその後の陣営の外国遠征にかける情熱をより掻き立てた出来事だったのかもしれません。

古馬の頂点へ

次走の有馬記念カツラギエースを下し、古馬の頂点に立ったシンボリルドルフは、翌年春の天皇賞も制し、5冠を達成しました。当時は古くからの6大競走にジャパンカップが加わり、7大競走がタイトルとされていました。残るは前年敗れたジャパンカップと出走していない秋の天皇賞のみとなりました。古馬に敵はなく、無事に出走できれば残る2冠奪取は確実と思われていました。

2番目の蹉跌・秋の天皇賞

 春の最終戦宝塚記念を左肩跛行で出走取消となったシンボリルドルフは予定されていた欧州遠征をキャンセルして夏を休養し、ぶっつけで秋の天皇賞に向かいました。

東京の2000mでは不利な外枠17番枠からの発走となったルドルフは抑え気味に出た後、馬なりで徐々に進出し、4角では岡部特有の持ったままでの仕掛け待ち作戦で外からくるウィンザーノットを待って追い出し、これを押さえるもゴール前でのギャロップダイナの強襲に屈して2着となりました。道中馬なりとはいえ早めに進出したことがこたえたのか、ローテの問題か、いつもの伸びがなかったことは間違いありません。

最強馬の証明

しかし、ひと叩きされたシンボリルドルフは体調を上げ、次走のジャパンカップを制し、国内での最後の出走となった有馬記念へ向かいました。ここでは4歳世代の最強馬ミホシンザンを子ども扱いする大楽勝で7冠を達成し、国内最強を証明しました。

最後の蹉跌・サンルイレイステークス

有馬記念を連覇し、7大競走のうち秋の天皇賞以外を制したシンボリルドルフは、確かに国内ではもう目標はなく、外国遠征に向かうことは誰もが当然視していました。しかし、その過程は紆余曲折がありました。結局アメリカ遠征に決定し、3月のサンタアニタ競馬場でのGIサンルイレイステークスが初戦に選ばれましたが、所属する野平厩舎の関係者は同行せず、現地のスタッフに任せるという事態になりました。

当時の日本のマスコミはこの遠征を大きく取り上げ、すべての競馬ファンが外国で勝利するシンボリルドルフの雄姿を思い描いていました。しかし、レースではアクシデントで左前脚繋靭帯炎を発症し、6着に惨敗しました。

この結果には、日本の競馬ファンのだれもが釈然としない思いを抱いたことでしょう。「あのシンボリルドルフが・・・なぜ?」という疑問には解答はありませんでした。一応、芝コースがダートコースを横切る場所で故障した、との説明がありましたが納得できる話ではありませんでした。一説には岡部騎手はルドルフの異常に気付いていて出走を回避するよう進言したが受け入れられなかった、という話が伝えられていますが真相は藪の中でしょう。

こののち、日本馬の海外遠征は、本来ルドルフと帯同する予定だったシリウスシンボリが1987年にフランスで出走したことを最後に、永い空白の時代を迎えたのでした。皇帝と呼ばれた最強馬がなぜ世界で通用しなかったのか・・・それは決して馬の能力の問題ではない、という答えに到達するにはもうしばらくの時間が必要だったのです。そして20世紀の最後の数年でシーキングザパールタイキシャトルそしてエルコンドルパサーらによって、日本馬が世界の舞台でも活躍できることが証明されたのでした。

シンボリルドルフの最後の蹉跌は、多くの教訓を日本の競馬界に残した、といえるのではないでしょうか・・・

揺れる韓国馬事会・・・国際G3コリアスプリントから日本馬をオミット

韓国の国際招待レース

世界的には極めてマイナーな位置付けの韓国競馬ですが、2016年にICSC(国際セリ名簿基準委員会)のパートII国として承認され、同年に初めて国際招待レース(コリアカップ、コリアスプリント)を開催するなど、近年は国際化の道をたどり始めています。

さらに、2019年には国際招待レースが国際G3に格付けされることとなり、9月に行われる2つの国際招待レースには注目が集まっています。

そのなかで発表された韓国馬事会(KRA)の「日本馬を招待せず」の発表は大きな反響を巻き起こしました。この件について詳しく見ていく前に、韓国の競馬の特徴について触れてみたいと思います。

韓国の競馬事情

 実は韓国競馬の勝馬投票券の売り上げは、アジアにおいて日本、香港に次ぐ第3位の規模を誇っています。欧州と比較するとちょうどアイルランドと同程度の売上げで約52憶ユーロ(2017年)になります。

控除率は約27%で日本より若干高く、インドを除くとアジアで最も控除率が高い国と言えます。

 韓国競馬の最大の特徴は、レースの賞金が高い、ということです。以下の表は各国の競走数、賞金額および平均賞金額を平均賞金額の高い順に並べたものです。

レース数が少なく、多くの高額賞金レースを持つ香港がダントツですが、なんと日本より6割高い韓国が第2位に入っています。日本の場合は、地方競馬も含まれるため、JRAに限定すれば何倍かの数字になるとはいえ、少なくとも「韓国のレースの賞金は日本の地方競馬よりはるかに高い」ことは確実と言えます。

 

順位 国名 競走数 賞金額(百万ユーロ) 平均賞金額(ユーロ)
1 香港 807 126 157,314
2 韓国 1,899 156 82,246
3 日本 16,407 841 51,295
4 シンガポール 859 36 42,313
5 アイルランド 1,172 31 26,952
6 フランス 4,954 120 24,382
7 オーストラリア 19,154 392 20,482
8 米国 37,628 742 19,737
9 英国 6,400 107 16,824
10 イタリア 2,595 28 11,154

 

これまでの韓国国際招待競走

 2016年から2018年までにコリアカップ、コリアスプリントはそれぞれ3回ずつ開催されています。

2016年コリアカップ 勝馬 クリソライト

2016年コリアスプリント 勝馬 スーパージョッキー(香港)

2017年コリアカップ 勝馬 ロンドンタウン

2017年コリアスプリント 勝馬 グレースフルリープ

2018年コリアカップ 勝馬 ロンドンタウン

2018年コリアスプリント 勝馬 モーニン

この結果から明らかなように、香港馬1勝、日本馬5勝と圧倒的に日本馬が優勢であり、2019年にもし日本馬が参戦すれば、優勝賞金の5億7千万ウオン(約5130万円)の行方は想像に難くありません。

KRAの決断とその波紋

従ってKRAの「韓国国民の感情を考慮すると、今年は日本調教馬を招待しないこと以外に選択の余地はありません。」という声明も無理からぬものといえるでしょう。

既にコリアスプリントにエントリーしていたコパノキッキングと藤田菜七子騎手は絶好のチャンスを奪われたことになりますが、気を取り直してブリーダーズカップで頑張って欲しいものです。

今回のことは、韓国競馬がこのままでは永遠にパートI国にはなれない、という事実を自ら世界に知らしめた事件として、永く記憶にとどめられることでしょう。

 

 

 

昭和競馬史回顧(6)20世紀に君臨-皇帝が敗れた日(中編)

追悼・・・ディープインパクト

突然のことで競馬関係者のみならず、多くの人々にショックを与えたディープインパクト号の訃報でした。既に多くの後継種牡馬を残していたことがせめてもの慰めです。

国内ではほぼ無敵の戦績を残しましたが、凱旋門賞は残念な結果でした。レース後に武豊騎手がインタビューを試みた合田直弘氏を完全スルーした光景が全てを物語っていました。

なぜ、日本の最強馬が海外で結果を残せないのか?ディープインパクトは、先輩最強馬のシンボリルドルフの轍を踏んだ、と言えるのかもしれません。

史上初の無敗三冠馬の出現

ダービーを無敗で制したシンボリルドルフは、いよいよ前人未踏の無敗の三冠馬に向けて、セントライト記念を楽勝し淀に向かいました。春のライバル・ビゼンニシキは既に無く、2番人気は稀代の癖馬ニシノライデンでした。レースでは、早めに先頭に立ったニシノライデンシンボリルドルフが交わしたところを7番人気のゴールドウェイが外から強襲し、これまでで最も僅差の3/4馬身差まで詰め寄りましたが、これを凌いで無敗の三冠達成となりました。

ジャパンカップへの挑戦

シンボリ牧場のオーナーの和田共弘氏は、スピードシンボリをワシントンDCインターナショナル競走に出走させるなど、当時としては珍しく海外志向の強いオーナーブリーダーでした。そのため、ダービー勝利後のシンボリルドルフに海外遠征のプランも浮上して、秋には凱旋門賞に挑戦!というニュースが流されたほどでした。しかし、結局夏場に体調を崩し遠征は断念されていました。

通常は3冠を戦った4歳馬(当時の呼称)が菊花賞から中1週でジャパンカップに出走する、という選択肢はまず考えられないものでしたが、オーナーサイドの思惑がシンボリルドルフを初の敗戦となる第4回ジャパンカップへと向かわせたのでした。

レースはしかし意外な展開となり、イギリスの最強せん馬ベッドタイムは2着でシンボリルドルフはベッドタイムにわずかに及ばず頭差3着。ラビットとみなされたか単騎大逃げを打ったカツラギエースが逃げ切り、史上初の日本馬の優勝となりました。

カツラギエースも強い馬でしたが、当時の競馬サークルは、展開の利で実力勝ちではないから手放しで喜べない、という雰囲気でした。

最強古馬への道

ジャパンカップではカツラギエースの後塵を拝したシンボリルドルフでしたが、次走の有馬記念では完勝し、実力ナンバーワンを印象づけました。明け5歳となった翌年は日経賞から始動し、単勝元返しという人気に応え楽勝すると、淀の天皇賞でもミスターシービーらを抑え、古馬最強を証明しました。(続く)

 

昭和競馬史回顧(5)20世紀に君臨-皇帝が敗れた日(前編)

シンボリルドルフとは何だったのか?

2019年4月25日に、シンボリ牧場社長の和田孝弘氏が死去されました。同氏は、シンボリルドルフのオーナーだった父・共弘氏が亡くなったのち、同牧場の社長に就任。1999年のNHKマイルCを勝ったシンボリインディや2002・03年の年度代表馬に選出されたG1・4勝馬シンボリクリスエスなどを輩出しました。ご冥福をお祈りします。

ディープインパクトの登場まで、競馬関係者の中では「最強馬はシンボリルドルフ」という意見が大勢を占めていたと思います。
タマモクロスオグリキャップナリタブライアンテイエムオペラオーなどとは異なる何かがそういう印象を与えていたことは間違いありません。
それは何なのか?ルドルフの軌跡をたどることで見えてくるかもしれません。

意表を突いたデビュー

シンボリルドルフがデビューした昭和58年当時、3歳の有力馬は秋の中央場所を初戦に選ぶことが常識でした。
仕上がり早やの馬の場合でも、北海道から使い出すものとされていました。そんな中、新潟でデビューしたシンボリルドルフは、その後3歳の特別戦とオープンを東京で連勝し、3歳時を3戦3勝で終えましたが、当時の3歳馬のチャンピオン決定戦である朝日杯3歳ステークスを回避したこともあり、後から見れば不思議なほどの低評価でした。

ライバル登場

昭和50年に、当時鳴り物入りで輸入されたノーザンダンサー種牡馬ミンスキーの初年度産駒として生誕した牝馬ベニバナビゼンは、競走成績こそ4勝と平凡でしたが、栗毛の美しい馬体が一部ファンの人気を集めていました。
繁殖入りするとダンディルートとの初年度産駒に栗毛の牡馬ビゼンニシキが生まれました。ビゼンニシキは3歳秋に東京でデビューすると3戦3勝し、翌年の明け4歳の初戦共同通信杯も快勝し、弥生賞では1番人気に押されました。

激闘と血塗られた勝利

シンボリルドルフが1番人気にならなかったのは、4歳時のジャパンカップを除くとこのビゼンニシキとの初対決の弥生賞のみでした。両雄は激闘を繰り広げ、結果シンボリルドルフが勝利を収めました。

ビゼンニシキは、続くスプリングステークスを勝利して、皐月賞で2度目の対決を迎えることになります。

皐月賞では、4角で先頭に立ったシンボリルドルフの外からビゼンニシキが襲いかかり、交わそうとしました。ここでシンボリルドルフの岡部騎手は、意図的にルドルフを斜行させビゼンニシキにぶつけ、結果として1馬身1/4差でルドルフの勝利となりました。

当時の岡部騎手は、騎乗技術では文句なくナンバーワンの騎手でしたが、その勝負にこだわった強引な騎乗が物議を醸すことも多く、このレースにおけるシンボリルドルフの騎乗により、2日間の騎乗停止の処分を受けることになりました。

当時のファンは、両雄の正々堂々とした勝負を期待していたため、非常に後味の悪いレースになりました。ビゼンニシキは、その後ダービートライアルのNHK杯を勝ち、ダービーで3度目の対決を迎えますが、血統的に距離の壁があったことと共同通信杯から6連戦という無理なローテーションがたたって、惨敗し、短距離路線に転向した秋初戦で骨折し、競走生命を終えました。

一方、シンボリルドルフは「無敗の2冠馬」という称号を得て、皇帝への道を一歩進めたのでした。(続く)

 

昭和競馬史回顧(4)黒船艦隊、府中を制圧(後編)

第1回ジャパンカップの出馬表(承前)

メアジードーツは勝ち星はG2まででしたが、ザベリワンと接戦しており、米国勢では2番手の5番人気、もう一頭の米国馬のペティテートはフランスG2勝馬でしたが8番人気でした。


一方、カナダからの遠征馬は、当時カナダが日本と同じく国際化されていなかったため低評価で、フロストキングの9番人気が最上位でした。

ホウヨウボーイモンテプリンスにゴールドスペンサーを加えた日本馬2~4番人気の3頭は前走の秋の天皇賞(東京3200m)で1~3着と当時の日本では屈指のステイヤーであり、ザベリワン以外とは対等に戦えるとの見立てで人気を集めていました。

坂下の衝撃

当日、1981年11月22日は好天で、初の国際競走を迎える府中の東京競馬場は内装も一変し、インターナショナルな雰囲気を醸し出していました。

良馬場で行われたレースは、「日の丸特攻隊」と異名を取ったサクラシンゲキですが、ここは大逃げを打たずに平均ペースで逃げるとブライドルパースとフロストキングがこれに続き、以下は離された縦長展開のまま欅を過ぎました。

第4コーナーで真っ白な馬体のフロストキングがサクラシンゲキを交わし直線へ。日本中のファンは、ホウヨウボーイモンテプリンス天皇賞の再現を期待して注視していましたが、両馬ともまだ馬群の中でもがいています。

早めに先頭に立ったフロストキングが埒沿いに粘るところに外から米国馬の3頭が一気に差を詰めてきます。そのスパートに日本馬は全くついて行けずに取り残されます。最後はメアジードーツがフロストキングを交わして日本レコードで優勝しました。この4コーナーから直線の攻防は、日本中のファン、競馬関係者の全てに衝撃と絶望を与えたと言っても過言ではないでしょう。

 

着順 枠番 馬番 競走馬名 タイム 着差 人気
1 8 14 メアジードーツ 2:25.3 レコード 5
2 1 1 フロストキング 2:25.5 1馬身 9
3 6 11 ザベリワン 2:25.7 1 1/2馬身 1
4 2 3 ペティテート 2:25.7 クビ 8
5 5 9 ゴールドスペンサー 2:25.8 1/2馬身 4
6 2 2 ホウヨウボーイ 2:26.1 1 3/4馬身 3
7 8 15 モンテプリンス 2:26.2 1/2馬身 2
8 4 6 ジュウジアロー 2:26.9 4馬身 11
9 5 8 サクラシンゲキ 2:26.9 アタマ 12
10 3 4 タクラマカン 2:27.0 クビ 6
11 7 12 メジロファントム 2:27.1 3/4馬身 7
12 3 5 ラフオンテース 2:27.7 3 1/2馬身 10
13 6 10 オウンオピニオン 2:28.7 6馬身 15
14 4 7 ブライドルパース 2:28.7 ハナ 13
15 7 13 ミスターマチョ 2:29.8 7馬身 14

 

発馬のアクシデントがあったホウヨウボーイと当時まだ完成途上だったモンテプリンスには不運な面もあったとはいえ、日本のチャンピオンホースが一瞬で引き離されたという現実、しかも相手は必ずしも超一流とは言えないクラスの牝馬であったということは、世界の競馬に日本が追いつくには何十年もかかるのでは?という危惧を抱かせるのに十分な事実でした。

それまでは、外国遠征は不利で勝てなくてもしょうがないが、自国開催なら勝負になるのでは?といった雰囲気も強かったのですが、この事実を目の当たりにして全く言い訳のできない力の差を認識したことが、全ての競馬関係者、特に馬産にかかわる人々の意識を変革し、その後の日本競馬の発展の礎になったことは間違いないと思われます。

そういう意味では、JRAが当時世界一の1着賞金を提示し、世界に目を向けてもらおうとし始めたことは時宜にかなったGoodJob!だったと言えるでしょう。日本経済の停滞とともに世界一の賞金レースというタイトルはとっくにどこかに行ってしまったジャパンカップですが、パート1国になったにもかかわらず外国馬のGレース出走が希なJRAとしては、初心に返って新機軸を打ち出しは如何?と思う今日この頃です。

昭和競馬史回顧(3)黒船艦隊、府中を制圧(前編)

ほぼ鎖国の日本競馬

今では、日本馬がドバイ、香港の国際レースのみならず、凱旋門賞キングジョージに挑戦することも日常的な出来事になってきましたが、半世紀前は日本馬の外国遠征は非常に希な出来事でした。


昭和31年の日本ダービーハクチカラが昭和32年に天皇賞有馬記念を制したのちに北米に遠征し、長期滞在して17戦1勝の成績を上げたのが、平成に到るまでの時代に最初で最後の日本馬の海外勝利でした。その後36年間、平成7年にフジヤマケンザンが香港国際カップに優勝するまで、日本馬は海外での勝利から遠ざかっていたのでした。


しかし、決して遠征していなかったわけではありません。また、チャンピオンクラスが遠征しなかったわけでもありません。スピードシンボリタケシバオーメジロムサシフジノパーシアなど日本では超一流と言われたステイヤーがワシントンDC国際競走に挑戦し、スピードシンボリの5着が最高着順という惨敗を繰り返していました。それほど、日本馬と外国馬の実力には差があったということです。

ジャパンカップの創設

そんな時代、JRAは日本馬のレベルアップを目指し、初の国際競走「ジャパンカップ」を創設し、第1回を1981年11月22日に開催すると発表しました。

当時としては世界最高額1着賞金6,500万円など招待馬を優遇したため、米国、カナダ、インドから7頭のエントリーがあり、日本馬8頭を加えて、第1回ジャパンカップは15頭立ての競走になり、国際競走としての体面を保ちました。


しかし、米国、カナダからの招待馬はチャンピオンクラスとは言えず、インド代表馬オウンオピニオンはインドでは最強でしたが、直前のトライアルレースの東京競馬場でのオープン戦で大差の最下位に敗退し、レベルの違いを露呈していました。

第1回ジャパンカップ出馬表

馬番 馬名 性別馬齢 斤量 騎手 調教師 単勝人気
1 1 フロストキング カナダ せん4 55kg L.ダフィー B.マーコ 9
2 2 ホウヨウボーイ 日本 牡7 57kg 加藤和宏 二本柳俊夫 3
2 3 ペティテート 米国 牡6 57kg W.シューメーカー R.フランケル 8
3 4 タクラマカン 日本 牡4 55kg 大崎昭一 松山康久 6
3 5 ラフオンテース 日本 牝5 55kg 岩元市三 布施正 10
4 6 ジュウジアロー 日本 牝5 55kg 安田富男 加藤修甫 11
4 7 ブライドルパース カナダ 牡6 57kg P.J.スーター M.ベンソン 13
5 8 サクラシンゲキ 日本 牡5 57kg 小島太 境勝太郎 12
5 9 ゴールドスペンサー 日本 牡6 57kg 大西直宏 中尾銑治 4
6 10 オウンオピニオン インド 牡7 57kg M.ジャグデイッシュ A.B.デビディアン 15
6 11 ザベリワン 米国 牝7 55kg R.ミグリオーレ S.ディマウロ 1
7 12 メジロファントム 日本 牡7 57kg 横山富雄 大久保洋吉 7
7 13 ミスターマチョ カナダ せん5 57kg G.スターバウム L.N.アンダーソン 14
8 14 メアジードーツ 米国 牝6 55kg C.アスムッセン J.フルトン 5
8 15 モンテプリンス 日本 牡5 57kg 吉永正人 松山吉三郎 2

 

ジャパンカップの1番人気は、米国7歳牝馬のザベリワンで、牝馬限定とは言えG1勝ちとワシントンDCインターナショナルで2着があり、順当な人気でした。次いでモンテプリンスホウヨウボーイ、ゴールドスペンサーの日本勢、5番人気に米国6歳牝馬メアジードーツでした。(続く)

 

昭和競馬史回顧(2)幻想の無敗神話崩壊の日(後編)

無敗神話の成立(承前)

そして、不敗神話が頂点を極めたNHK杯を迎えます。ハイセイコーのこれまでのローテーションは、皐月賞トライアルの弥生賞スプリングステークスに両方出走し、皐月賞を迎えるという、厳しいものでした。従って、ダービーには直行するのがセオリーでしたが、陣営はあえてNHK杯を使うことを選択しました。それは、ハイセイコーに物見をする癖があり、初コースで初の左回りの東京コースでダービーを迎えるのは危険だ、という思いが陣営にあったからだと言われています。

共同幻想の無敗神話

NHK杯は陣営の不安が的中し、苦しい戦いになりました。皐月賞2着のカネイコマが直線坂上で先頭に立ち、ハイセイコーに5,6馬身の差を付けていました。この時点で誰もが怪物の敗戦を予感し、悲鳴を上げかけていました。しかし、ハイセイコーはここから一世一代の末脚を繰り出し、カネイコマを捉え、不敗神話を守ったのでした。

NHK杯の結果、大部分のファンと関係者が「ハイセイコーは負けない」という神話が事実である、という幻想を抱きました。記録のゲームでもある競馬において、無敗の成績ほど価値あるものはありません。さらに絶体絶命のピンチに奇跡的な末脚を繰り出して勝つという、劇的なパフォーマンスが花を添えました。ダービーを前にして、タケホープ嶋田功騎手が「ハイセイコーが4つ足なら、タケホープも4つ足」と語ったことが話題になりましたが、それほど当時のムードが「無敵ハイセイコー」一色だったことを物語っています。

神話の崩壊

第40回東京優駿日本ダービー)の当日、昭和48年5月27日の東京は好天に恵まれ、のどかな雰囲気でした。しかし、レース後、東京競馬場の来場者だけでなく、テレビ観戦をしていた全ての競馬ファンの間に異様な、これまでに経験したことがない空気が流れました。後から振り返って見れば、さまざまな要因が重なった結果の敗戦というべきでしょう。ローテーション、距離、レース展開、すべてがハイセイコーの足を引っ張りました。ローテーションは、陣営の問題で、距離は、先着したタケホープイチフジイサミがいずれも後に3200mの天皇賞を勝利しているように相対的な適性の問題ですが、注目すべきはレース展開でした。

登録はフルゲートの28頭(カミノテシオが取り消して発走は27頭)で、ハイセイコー以外のすべての馬の騎手が「なんとか負かしてやろう」と騎乗していたことは間違いありません。当時では珍しい地方競馬出身の非良血馬にダービーを勝たれたくない、という思いが競馬サークルになかったとは言えないでしょう。ハイセイコーはその包囲網の中、もがき、結果的に早く先頭に立ちすぎ、末脚を無くして3着に敗れました。

今風に言えば、フラグを立てまくった結果の「お約束の敗戦」といえるでしょう。全てのアンチも含めたハイセイコーファンの「無敗神話幻想」が現実の前に打ち砕かれた、日本競馬歴史上最も劇的な敗戦がそこにはありました。その後のハイセイコー人気はいわば共同幻想の犠牲者に対する無意識的な贖罪行為だったのかもしれません。