ほぼ鎖国の日本競馬
今では、日本馬がドバイ、香港の国際レースのみならず、凱旋門賞やキングジョージに挑戦することも日常的な出来事になってきましたが、半世紀前は日本馬の外国遠征は非常に希な出来事でした。
昭和31年の日本ダービー馬ハクチカラが昭和32年に天皇賞と有馬記念を制したのちに北米に遠征し、長期滞在して17戦1勝の成績を上げたのが、平成に到るまでの時代に最初で最後の日本馬の海外勝利でした。その後36年間、平成7年にフジヤマケンザンが香港国際カップに優勝するまで、日本馬は海外での勝利から遠ざかっていたのでした。
しかし、決して遠征していなかったわけではありません。また、チャンピオンクラスが遠征しなかったわけでもありません。スピードシンボリ、タケシバオー、メジロムサシ、フジノパーシアなど日本では超一流と言われたステイヤーがワシントンDC国際競走に挑戦し、スピードシンボリの5着が最高着順という惨敗を繰り返していました。それほど、日本馬と外国馬の実力には差があったということです。
ジャパンカップの創設
そんな時代、JRAは日本馬のレベルアップを目指し、初の国際競走「ジャパンカップ」を創設し、第1回を1981年11月22日に開催すると発表しました。
当時としては世界最高額1着賞金6,500万円など招待馬を優遇したため、米国、カナダ、インドから7頭のエントリーがあり、日本馬8頭を加えて、第1回ジャパンカップは15頭立ての競走になり、国際競走としての体面を保ちました。
しかし、米国、カナダからの招待馬はチャンピオンクラスとは言えず、インド代表馬オウンオピニオンはインドでは最強でしたが、直前のトライアルレースの東京競馬場でのオープン戦で大差の最下位に敗退し、レベルの違いを露呈していました。
第1回ジャパンカップ出馬表
枠 | 馬番 | 馬名 | 国 | 性別馬齢 | 斤量 | 騎手 | 調教師 | 単勝人気 |
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1 | 1 | フロストキング | カナダ | せん4 | 55kg | L.ダフィー | B.マーコ | 9 |
2 | 2 | ホウヨウボーイ | 日本 | 牡7 | 57kg | 加藤和宏 | 二本柳俊夫 | 3 |
2 | 3 | ペティテート | 米国 | 牡6 | 57kg | W.シューメーカー | R.フランケル | 8 |
3 | 4 | タクラマカン | 日本 | 牡4 | 55kg | 大崎昭一 | 松山康久 | 6 |
3 | 5 | ラフオンテース | 日本 | 牝5 | 55kg | 岩元市三 | 布施正 | 10 |
4 | 6 | ジュウジアロー | 日本 | 牝5 | 55kg | 安田富男 | 加藤修甫 | 11 |
4 | 7 | ブライドルパース | カナダ | 牡6 | 57kg | P.J.スーター | M.ベンソン | 13 |
5 | 8 | サクラシンゲキ | 日本 | 牡5 | 57kg | 小島太 | 境勝太郎 | 12 |
5 | 9 | ゴールドスペンサー | 日本 | 牡6 | 57kg | 大西直宏 | 中尾銑治 | 4 |
6 | 10 | オウンオピニオン | インド | 牡7 | 57kg | M.ジャグデイッシュ | A.B.デビディアン | 15 |
6 | 11 | ザベリワン | 米国 | 牝7 | 55kg | R.ミグリオーレ | S.ディマウロ | 1 |
7 | 12 | メジロファントム | 日本 | 牡7 | 57kg | 横山富雄 | 大久保洋吉 | 7 |
7 | 13 | ミスターマチョ | カナダ | せん5 | 57kg | G.スターバウム | L.N.アンダーソン | 14 |
8 | 14 | メアジードーツ | 米国 | 牝6 | 55kg | C.アスムッセン | J.フルトン | 5 |
8 | 15 | モンテプリンス | 日本 | 牡5 | 57kg | 吉永正人 | 松山吉三郎 | 2 |
ジャパンカップの1番人気は、米国7歳牝馬のザベリワンで、牝馬限定とは言えG1勝ちとワシントンDCインターナショナルで2着があり、順当な人気でした。次いでモンテプリンス、ホウヨウボーイ、ゴールドスペンサーの日本勢、5番人気に米国6歳牝馬のメアジードーツでした。(続く)