Eclip’s blog

真の国際化をめざして・・・世界における日本の競馬

昭和競馬史回顧(5)20世紀に君臨-皇帝が敗れた日(前編)

シンボリルドルフとは何だったのか?

2019年4月25日に、シンボリ牧場社長の和田孝弘氏が死去されました。同氏は、シンボリルドルフのオーナーだった父・共弘氏が亡くなったのち、同牧場の社長に就任。1999年のNHKマイルCを勝ったシンボリインディや2002・03年の年度代表馬に選出されたG1・4勝馬シンボリクリスエスなどを輩出しました。ご冥福をお祈りします。

ディープインパクトの登場まで、競馬関係者の中では「最強馬はシンボリルドルフ」という意見が大勢を占めていたと思います。
タマモクロスオグリキャップナリタブライアンテイエムオペラオーなどとは異なる何かがそういう印象を与えていたことは間違いありません。
それは何なのか?ルドルフの軌跡をたどることで見えてくるかもしれません。

意表を突いたデビュー

シンボリルドルフがデビューした昭和58年当時、3歳の有力馬は秋の中央場所を初戦に選ぶことが常識でした。
仕上がり早やの馬の場合でも、北海道から使い出すものとされていました。そんな中、新潟でデビューしたシンボリルドルフは、その後3歳の特別戦とオープンを東京で連勝し、3歳時を3戦3勝で終えましたが、当時の3歳馬のチャンピオン決定戦である朝日杯3歳ステークスを回避したこともあり、後から見れば不思議なほどの低評価でした。

ライバル登場

昭和50年に、当時鳴り物入りで輸入されたノーザンダンサー種牡馬ミンスキーの初年度産駒として生誕した牝馬ベニバナビゼンは、競走成績こそ4勝と平凡でしたが、栗毛の美しい馬体が一部ファンの人気を集めていました。
繁殖入りするとダンディルートとの初年度産駒に栗毛の牡馬ビゼンニシキが生まれました。ビゼンニシキは3歳秋に東京でデビューすると3戦3勝し、翌年の明け4歳の初戦共同通信杯も快勝し、弥生賞では1番人気に押されました。

激闘と血塗られた勝利

シンボリルドルフが1番人気にならなかったのは、4歳時のジャパンカップを除くとこのビゼンニシキとの初対決の弥生賞のみでした。両雄は激闘を繰り広げ、結果シンボリルドルフが勝利を収めました。

ビゼンニシキは、続くスプリングステークスを勝利して、皐月賞で2度目の対決を迎えることになります。

皐月賞では、4角で先頭に立ったシンボリルドルフの外からビゼンニシキが襲いかかり、交わそうとしました。ここでシンボリルドルフの岡部騎手は、意図的にルドルフを斜行させビゼンニシキにぶつけ、結果として1馬身1/4差でルドルフの勝利となりました。

当時の岡部騎手は、騎乗技術では文句なくナンバーワンの騎手でしたが、その勝負にこだわった強引な騎乗が物議を醸すことも多く、このレースにおけるシンボリルドルフの騎乗により、2日間の騎乗停止の処分を受けることになりました。

当時のファンは、両雄の正々堂々とした勝負を期待していたため、非常に後味の悪いレースになりました。ビゼンニシキは、その後ダービートライアルのNHK杯を勝ち、ダービーで3度目の対決を迎えますが、血統的に距離の壁があったことと共同通信杯から6連戦という無理なローテーションがたたって、惨敗し、短距離路線に転向した秋初戦で骨折し、競走生命を終えました。

一方、シンボリルドルフは「無敗の2冠馬」という称号を得て、皇帝への道を一歩進めたのでした。(続く)