Eclip’s blog

真の国際化をめざして・・・世界における日本の競馬

昭和競馬史回顧(7)20世紀に君臨-皇帝が敗れた日(後編)

凱旋門賞に思うこと

今年も凱旋門賞の季節になりました。日本馬は3頭で、キセキは前哨戦を使い、他の2頭(フィエールマンとブラストワンピース)は英国ニューマーケットでの調整から前日フランスへの空輸という臨戦過程に各陣営の工夫が感じられます。

最強イネーブルにどう立ち向かうのか興味は尽きませんが、日本競馬界の戦前の予想を見ると冷静さが目立ちます。前哨戦でのキセキの着順や相手の強さを考えると無理からぬものがあるでしょう。

これまで日本馬には何度か凱旋門賞制覇のチャンスがありました。しかし、いずれも不運な出来事で2着に終わっています。日本の最強馬が海外の頂点のレースに挑む・・・そんなチャレンジを見るに付け、1986年のシンボリルドルフの海外遠征のことが思い出されます。当時の日本の競馬ファンの期待は想像を絶するほどで、前年にジャパンカップを楽勝していることもあり、十分海外で戦えると誰もが考えていました。

初の蹉跌・ジャパンカップ

シンボリルドルフは、無敗で三冠を達成した4歳(当時の馬齢表記)秋に菊花賞から中1週の強行日程で第4回ジャパンカップへ出走します。1番人気は前走の距離短縮された初の天皇賞・秋を勝ったミスターシービーでルドルフは4番人気でした。逃げた毎日王冠勝馬カツラギエースが逃げ切り、ルドルフは2着のベッドタイムに及ばず3着でした。

このレース結果はさまざまな波紋を呼びました。まず、日本馬が初めてジャパンカップを勝ったこと。第1回ジャパンカップで見せつけられた外国馬の強さは、「日本馬がジャパンカップを勝つまでには20年かかる」と言われたほどの衝撃を与えました。それがわずか3年後に決してトップホースでない逃げ馬が勝ってしまったことが、手放しでは喜べない微妙な空気を醸し出しました。もし、この時、勝ったのがルドルフかミスターシービーであったなら、おそらく全く違ったのでしょう。

しかし、カツラギエースの勝利は、本来ショッキングであるべき無敗三冠馬の敗戦というルドルフの初の蹉跌を覆い隠しました。無敗の三冠馬を中一週で、これまでとは比べものにならない強敵ぞろいのジャパンカップへ出走させる、という決断をした陣営の意図は明らかにされていませんが、おそらく勝てると考えていたのではないでしょうか。そういう意味では、この蹉跌はその後の陣営の外国遠征にかける情熱をより掻き立てた出来事だったのかもしれません。

古馬の頂点へ

次走の有馬記念カツラギエースを下し、古馬の頂点に立ったシンボリルドルフは、翌年春の天皇賞も制し、5冠を達成しました。当時は古くからの6大競走にジャパンカップが加わり、7大競走がタイトルとされていました。残るは前年敗れたジャパンカップと出走していない秋の天皇賞のみとなりました。古馬に敵はなく、無事に出走できれば残る2冠奪取は確実と思われていました。

2番目の蹉跌・秋の天皇賞

 春の最終戦宝塚記念を左肩跛行で出走取消となったシンボリルドルフは予定されていた欧州遠征をキャンセルして夏を休養し、ぶっつけで秋の天皇賞に向かいました。

東京の2000mでは不利な外枠17番枠からの発走となったルドルフは抑え気味に出た後、馬なりで徐々に進出し、4角では岡部特有の持ったままでの仕掛け待ち作戦で外からくるウィンザーノットを待って追い出し、これを押さえるもゴール前でのギャロップダイナの強襲に屈して2着となりました。道中馬なりとはいえ早めに進出したことがこたえたのか、ローテの問題か、いつもの伸びがなかったことは間違いありません。

最強馬の証明

しかし、ひと叩きされたシンボリルドルフは体調を上げ、次走のジャパンカップを制し、国内での最後の出走となった有馬記念へ向かいました。ここでは4歳世代の最強馬ミホシンザンを子ども扱いする大楽勝で7冠を達成し、国内最強を証明しました。

最後の蹉跌・サンルイレイステークス

有馬記念を連覇し、7大競走のうち秋の天皇賞以外を制したシンボリルドルフは、確かに国内ではもう目標はなく、外国遠征に向かうことは誰もが当然視していました。しかし、その過程は紆余曲折がありました。結局アメリカ遠征に決定し、3月のサンタアニタ競馬場でのGIサンルイレイステークスが初戦に選ばれましたが、所属する野平厩舎の関係者は同行せず、現地のスタッフに任せるという事態になりました。

当時の日本のマスコミはこの遠征を大きく取り上げ、すべての競馬ファンが外国で勝利するシンボリルドルフの雄姿を思い描いていました。しかし、レースではアクシデントで左前脚繋靭帯炎を発症し、6着に惨敗しました。

この結果には、日本の競馬ファンのだれもが釈然としない思いを抱いたことでしょう。「あのシンボリルドルフが・・・なぜ?」という疑問には解答はありませんでした。一応、芝コースがダートコースを横切る場所で故障した、との説明がありましたが納得できる話ではありませんでした。一説には岡部騎手はルドルフの異常に気付いていて出走を回避するよう進言したが受け入れられなかった、という話が伝えられていますが真相は藪の中でしょう。

こののち、日本馬の海外遠征は、本来ルドルフと帯同する予定だったシリウスシンボリが1987年にフランスで出走したことを最後に、永い空白の時代を迎えたのでした。皇帝と呼ばれた最強馬がなぜ世界で通用しなかったのか・・・それは決して馬の能力の問題ではない、という答えに到達するにはもうしばらくの時間が必要だったのです。そして20世紀の最後の数年でシーキングザパールタイキシャトルそしてエルコンドルパサーらによって、日本馬が世界の舞台でも活躍できることが証明されたのでした。

シンボリルドルフの最後の蹉跌は、多くの教訓を日本の競馬界に残した、といえるのではないでしょうか・・・